今日、明日、この先へ。 祈りの中の「金」とは。−3−

2021.03.12

京都で息づく伝統技術で金箔と言えば、金箔押のほかに「引箔」があります。これは西陣織の帯に織り込むための金糸をつくるものです。現代ではその担い手も減少していますが、明治10年(1877)の創業以来その技術を守り続ける「箔屋野口」さんでは、四代目の野口 康さんが引箔の技術を継承し、息子の琢郎さんは、伝統の技をアートに発展させた「箔画」で、引箔の技術を現代に生かしています。この「箔屋野口」さんも、LOTUS memoriesに金箔で心を注いでいただいている工房です。

 

 

毎日でも眺めたくなるもののために、金箔を施す。

 

四代目の康さんは、引箔の職人となってから、「なぜ人が金に憧れるのか」を深く知るために世界各地を訪ねました。「しかし、結局はわからないですよ、なぜ金でないと駄目なのかは。ひとつだけ言えるのは、世界各地の宗教や祈りの聖地には必ず金が施された建物や対象があります。この金がプラチナや銀だと、冷たく感じてしまう。だから金なのだろうということです」。

では、祈りの場に金があるのはなぜかと考えた時、物質的に金はほぼ変色しないことから、輝きが色褪せない=永遠を感じさせるのではないか、と考えた康さん。「私の仕事でもある金糸は、西陣織の帯に織り込みます。着物は長い年月受け継がれていくものですが、確かに色褪せない。だからいつ着ても、場に特別な空気感をもたらすことができる気がします。着物を着ている人自身も生き生きとして見えます。なんだか時が止まらない感じがしますね。そう考えると、金は貴重な存在です」。

引箔を生業としながら、いつも「金っていいものだな」と感じているという康さん。いいものと感じる理由は、この永遠を感じさせる存在にあるのかもしれません。では、その永遠性を帯びた金を扱う者として、心がけていることとは何でしょう?

「金を使って何かをつくるならば、一度見て満足してしまうものではいけません。人の心をその場限りで躍らせるようでは駄目なのです。驚かせるのではなく、毎日でも眺めたくなるものにこそ、金が必要なのです」

毎日でも眺めたくなるものとしての金。毎日という連続性の中から、祈りの心も生まれるのかもしれません。

「箔屋野口」四代目の康さん(右)と箔画作家の琢郎さん(左)。京町家の工房では、康さんの引箔講座が開催されることもあります。1階ではお二人の箔画を見て購入することもできます。
・箔屋野口
https://hakunoguchi.theshop.jp

 

場をつくるのが、金の役割だと感じます。

 

一方、引箔の伝統技法を用いた「箔画」の作家として活動する琢郎さんは、金とどう向き合っているのでしょうか。

「一般の人よりも圧倒的に金を見慣れているのが私たち職人です。それでもなお、金はどれだけ見ていても心惹かれます」と琢郎さん。

「箔画には、たくさんの金箔を使います。しかし、使う量が多いから美しいというわけではありません。金は扱う人の考え方ひとつ、技ひとつで上品にも下品にもなる、魔物のような存在です。だからこそ、私たち金箔に携わる者は、なぜ金が人の心を離さないのか、技術とともにその答えも探し続けなければなりません」

作品にほぼ箔だけを使ったアートは世の中にあまりありません。独自の美的表現が注目されている琢郎さんの箔画ですが、注目されるからこそ、金箔とは何かを突き詰め続ける心を忘れてはいけないと琢郎さんは考えます。

「アートの分野で金箔の持つ力を考えてみると、一般的な絵画や日本画と私が手がける箔画では、大きく異なる点があります。それは背景です。一般的な絵画や日本画には、背景が必要です。そこも含めて物語が成立します。しかし背景を描くのではなくそこに金箔を張ってみます。するとそれだけで、画の世界観は成立するのです。また味わいも風情も生まれます」

つまり金箔はそれだけで世界観を創り上ることができる、希有な存在なのです。

 

お二人の話から感じたのは、金は唯一無二の存在だということでした。だからこそ、手元供養のようにたとえ小さな物でも、“そこにある”だけで人の心を落ち着かせ、また祈りの気持ちが湧き起こることにもつながるのでしょう。

 

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