人間の感情の出発点が、祈りなのかもしれない −2−

2020.11.15

さて、宗教者として「死を身近に感じてほしい」という思いを胸に

さまざまな活動をしている霍野さんですが、

宗教者として、「手を合わせる」という行為は一般の人と何が違うのかを聞いてみました。

 

 

信仰と内なるもの・ことへ向き合うこと

 

「僕は浄土真宗の僧侶ですから、お仏壇やお墓に手を合わせる際の対象は、必ず阿弥陀様という仏様です。

一方で宗教者ではない一般の多くの方々が、故人を対象として手を合わせていることもよくわかります。

阿弥陀様に手を合わせることは、自分がこの世のいのちを終えたときに

必ず抱きしめてくださる仏様がいらっしゃる、という信仰につながっていきます。

故人に手を合わせることは、その想い出などから自分の中に何かが生まれることはあるものの、

自分がいのちを終えていく問題の解決にはつながりにくいと思うんです」。

同じ仏壇に手を合わせるのでも、このように対象が変わるだけで、向き合い方は異なる。

「もちろん、手を合わせる時々で、心模様も異なりますよね。それでいいと思います」。

 

つい先日、祖父の13回忌の法事を勤めた霍野さん、その際には両者の立場をあらためて感じたといいます。

「ご法事の最中、阿弥陀様に手を合わせました。

しかし同時に、祖父にもらった言葉が自分の中で思い出され、

言葉の大きさを感じ、またその言葉から今の自分を振り返る時間をもらいました。

手を合わせる行為は、後者のように、

故人を偲びつつ、その存在から自分を見つめ直す機会をもらえることでもあるのです。

一般的には、こちらの意義の方が強いのではないでしょうか」。

 

 

 

大切な方を思える場づくりが、家を整える。

 

また霍野さんは、手を合わせる場所の有無も大事だと言います。

「なんとなく仏壇の方には足を向けたくないと思うように、

家の中に特別で、非日常な場所がひとつあることで、家という場が整う気がします。

マンションのような近代建築には、仏間がありませんね。

仏壇を持つ人も減ってきています。それでも、

仏壇に変わる何かが家の中にあることで場が整うという感覚は変わらないのではないでしょうか」。

近年は仏壇離れも進み、また、お墓を設けない選択する事例も増えています。

「お墓を設けない選択をしたが、“どこに手を合わせていいのか分からない”と話してくれた方がいました。

コスト重視で考えてしまったものの、お盆やお彼岸に際し、

さて、自分はどこに向かって手を合わせたらいいのか、と迷い、とても気持ちが沈んだと言うのです。

この話を聞いて、手を合わせる場所がないという事実は、喪失感を高めてしまう可能性がある、

逆に自分が大切な方を思える場所があるということは、

手を合わせて故人を思い、気持ちや願いを伝えることの本質なのかとも考えました」。

仏教では、人間のことを「有情(うじょう)」と表現することがあるそうです。

情があるから何事も物理的な側面だけでは済ますことができず、

苦しみ、悲しみ、偲び、心が右往左往することもある。

しかしそれが人間の姿に違いなく、情があるから手を合わせる瞬間も生まれてくるということなのでしょう。

「そう考えると、一般的に言う祈りとは、人間の感情の出発点なのかもしれませんね」。

 

 

 

近隣に寺がない、そんな未来のために。

 

ところで、近年は法要などにテクノロジーが加わってきました。

そのことは、手を合わせるという時間や行為にどんな変化をもたらすのでしょう?

 

「例えばご法事に参加したいが諸事情で行けない場合、

オンライン化によってその課題は解決できるようになりました。

もっと進んでいくと、お位牌にボタンが付いていて、そこを押すと映像で故人が現れる、

なんてことも起こるかもしれません(笑)。

また、オンラインが根付いていくと、

これまでは近親者や親族が集まって執り行っていたご法事も、

各地にいながら、同じ時間を共有するだけで可能になってきます。

友人みんなで同級生を偲ぶ、アニメのファンがオンライン上で集ってキャラクターを偲ぶといったように、

ご法事の形式が多様化するかも知れません。

つまりテクノロジーというツールによって、

祈ることの本質が変わるわけではないと考えています。

むしろそれを上手く活用していくことで、気軽に場を設けることができるようになる。

テクノロジーは、手を合わせるという行為にプラスに作用すると考えています」。

これからの時代は、仏壇はあるが近隣にお寺がない、という地域が出てくる可能性もあります。

「そこで我々宗教者が大事にしていくべきなのは、

死者との対話、死との対話の場をどう整備していくか、だと感じています。

オンラインを活用すれば、

離れていても、家族や親戚の家々にある小さな“手を合わせる場”を結ぶこともできるでしょう。

根本の意義を我々が見失わないようにしつつ、現代そして未来の暮らしに合わせた場を整えていくこと。

僧侶にはそんな役割が生まれてくるでしょう。

このことが、手を合わせるということの本質をあらためて宗教者に問いかけているのだと思います」。

 

弔いや法事の形に変化が生まれる中、

私たちはそれぞれの形に合わせ、自身の祈りの姿を考えていく必要もあるのだと感じました。

 

 

京都で活動する20代、30代の僧侶が有志で立ち上げた「ワカゾー」。 Deathカフェや死生観光トランプについても紹介されています。

 

【ワカゾー】

https://wakazo-deathcafe.com

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