人間の感情の出発点が、祈りなのかもしれない −1−
2020.11.01
みなさんは、死について、日ごろ考えますか?
ニュースなどで目にする機会は多いと思いますが、
自身や身近な人に係わる死については、考えない、話さない。
というより、無意識のうちにそうしないようにしている、といった方がいいでしょうか…。
10年ほど前、外国で「デスカフェ」という集まりが始まりました。
お菓子や飲み物を前に、立場も境遇も異なる人が集い、笑顔で話すその会。
どこにでもある茶話会のようですが、大きく違うのは、話のテーマが「死にまつわること」である点です。
それから数年経ち、2015年に京都で「Deathカフェ」が始まります。
立ち上げたのは浄土真宗の僧侶である霍野廣由(つるの こうゆう)さんと、その仲間たち。
死について、普段から話そう。できるだけカジュアルに。
「始めた理由はとってもシンプルです。
率直に“もっと死について考える場が増えればいいな、と思ったから」と言う霍野さん。
僧侶は、死で終わらない物語を檀家や門徒、参拝者に話します。
寺をよく訪れる高齢の方はそのような話をたくさん聞いてきたこともあり、
すんなり受け入れられるのですが、
例えば20代や30代は、まだまだ人生これから、そもそも死や往生の話を聞いても、いまいちピンと来ない。
「なぜだろう、と考えてみたんです。
現代社会では、死について考える機会があまりありません。
だから、いきなり死にスポットを当てられても、それをどう受け止めたらいいのか、
考えたらいいのか分からない。
それならばもっと元気なうちから、死について考えることができた方がいいのではないでしょうか」。
以前終末期の病棟で傾聴ボランティアをしていた際に、余命が近い30代前半の男性に出会った。
妻子がいて、自分もこれからなのに…と、死を受け入れられない、
だから自身の死について家族と話す機会も持てない。
その経験から霍野さんは
「思いがけず、予想外に迫ってくるのが死です。でも迫ってからでは
受け入れることが難しいこともあります。だから、普段から、カジュアルに」と考えたと言います。
僧侶である霍野さんがこだわったのは、お寺での開催でした。
「お寺には人の死を弔ってきた記録と記憶があります。
だから日本では、お寺でやることに意義があると考えました」。
ふと手を合わせる。そこに対象があるといいのかも。
霍野さんは、宗教者としてDeathカフェを運営する中で思うことがあるそうです。
「仏教の宗派、ひいては仏教かどうかは関係なく、
最終的には一人称の死をどう捉えるのか、考えるのかが大切なところなのだろうなと思います。
いのちを終えたあとの世界について、指針となるような考えや思い、願いを個々人が持っていてほしいですね。
たとえば死後は星になるとか、山に帰っていくとか。
物語はいろいろあっていいんです。
どれがいいとか悪いとかではなく、自分のなかでしっくりいくものに早めに出合ってほしいなと願っています」。
また霍野さんは、ふと手を合わせる瞬間を大切にしてほしいと言います。
「思いや願いが胸に湧き起こったときに手を合わせる。そこに何か対象があるといいですね。
お寺や、特別な場所までわざわざ出かけなければならないようでは、
その沸き起こった思いが冷めてしまうかもしれません」。
死を意識し、自分のこととして捉えることから、日々の暮らしのなかで思いや願いが生まれるようになる。
その非日常の瞬間が、これからは大切になってくるのではないかと感じました。
生き死を理解することで、多様性理解へ。
ところで、死を一人称のことにしていく、つまり死と自分を近づける、
その新たなきっかけを、霍野さんは考案しています。それが「死生観光トランプ」。
世界中で恐らく知らない人はいない遊び、それがトランプ。
ご存知のように、トランプには数字と絵が描かれています。
「死生観光トランプ」は、その絵で、世界各国の死生観や弔いの作法を紹介しているものです。
「いろいろな死にまつわる事柄を調べていくなかで、自分には受け入れられない死生観もありました。
しかし、僕には理解できなくても、その弔いの形が生まれた時代に生きていた人達にとっては、
何か必ず意味があったのだとは思えます。
そこで、このように第三者の死を紹介していくことで、
受け入れられる、受け入れられない、自分の時代はどうなのだろう、自分はどう考えている? と、
死を自分という一人称のことに近づけてもらおうと考えました」と霍野さん。
また霍野さんは、いろいろな生き死を理解することは、
多様性を理解することにもつながっていくと言います。
「死から逆算するのも大切なのではないかと最近考えています。
いつか死ぬ、という大前提があって、そこから今の自分を考えた時に、
自分が在りたい姿やこの先求める姿が出てくることもあるでしょう。
するといろいろな思いや願いが心に沸き起こってきます。
死という非日常を見つめることを通して、どう生きるのかと日常に思いをめぐらす。
そんな風に生と死とを行ったり来たりすることが大切な気がしています」。