祈りは、私たちが「らしくある」ためのもの   −2−

2020.10.15

前回書いたように、現在主流となっているお葬式の姿は仏教が伝来してからのものですが、

お葬式だけではなく、冠婚葬祭全般の在り方は、明治以降に定まってきたものです。

それらは、仏教式、神道式と明確に別れているものもあれば、ミックスされているものもあります。

神道の伝統がやがて仏教に取り入れられてきたように、

また家庭において神棚と仏壇が設置されているように、私たち日本人は、

宗教を自分達の生活に合わせて取り入れていったのかもしれません。

 

 

社会は変化しても、心はきっと変わらない。

 

さて、常識だと思っていたことがそうではなくなり、価値観もゆらぐ現代。

社会の安定が薄れ、人々の心には不安も芽生え、先行きが見通せなくなってきています。

このような中にあって、これから「祈り」の形はどうなっていくのでしょうか。

 

「祈る形というのは、時代で変わってくるものだと思います。

それは時代の変化とともにさまざまなことが変わる中で、自然なことだと思います。

しかし、それでも変わらないものがあります。それが人の心の形というか、祈りそのものだと思います。

物質的な物事の形は変わっても、亡くなった方を慈しむ心の在りようは昔も今も変わらないものです。

コロナ禍で、葬儀の形も大きく様変わりしてきています。

オンライン化が進み、人と人とが触れあう機会も減ってきています。

だからといってこのような状況は良くないことかと聞かれれば、

一概にそうとは言えないと思います。

よく考えてみると、例えば遠方で法要が営まれるとします。

事情があってお参りに行けない場合は、その方角に手を合わせたりもしますよね。

現地に行けないなら、せめて祈って気持ちを届けよう、と考えるわけです。

つまり昔も今も、そしてこれからも、

時々によって祈り方は変わると思いますが、心だけは変わらないのではないでしょうか。

もちろん、当社における神道葬祭も、

当社創建前の社会ではもともとできていなかったわけで、

創建によって一般の方でも神道葬祭ができるようになったことは、

祈りの大きな変化だと捉えることもできます」。

 

 

神道葬祭では、仏教の葬儀でいう位牌に当たる物として霊璽(霊璽)があります。

葬祭によって故人の御霊を霊璽に移すことで、以後、故人はその家を守ってくれる存在となるそうです。

写真右側の大きな方がご家庭でお祀りする霊璽で、小さい方は、葬祭後に霊明神社内で合祀されます。

 

 

人が、これからも人であるために祈りを。

 

これから祈りがどのような形になっていくかは、どんな社会になるのかとワンセットだと思うと村上さん。

「どんな社会になるかはわかりませんが、人と人がつながっていられる、

関係性を築ける社会であってほしいし、他者に対してやさしい社会であることを願います」。

 

祈りは自分が自分らしくあるためのもの。つまり、人であるためのものと言えます。

変わらず在り続ける祈りが人と人をつなぎ、

やさしい社会を支るのかもしれないというのが村上さんの思いです。

一方で、気になることもあると続けます。

「普遍的なことは、どんな人間も等しく“死ぬ”という事実があることです。

それは“生きる”ということと一体です。

国や性別、身分、お金の有無にかかわらず、誰しも生まれてくると同時に、死に向かっていくのです。

命というものはそのように矛盾しているものです。

それに対して人間がどう思うか。

今は、できるだけ長く生きる、いかに死なないか、というのがテーマになっている気もします」。

 

 

 

祈りは、人間だからできること。

 

「神道の立場からは“いかに生きるか”という、よりよく生きることを考えたいのです。

死なないことをテーマとすることには、いささか不安を感じます」と村上さん。

いかに生きていくかを考える時、

そこには先人への畏敬の念、未来への願いなど、さまざまな「祈り」が存在します。

つまり暮らしの中に祈りの時間や場所を持つことは、

どのように自分が生きていくかを考えることにつながるのです。

そして祈りや祈るという行為は、

私たち人間だから持てること。人が人である証しとも言えるような気がします。

 

「私たちが人間らしくあるために、祈りはあるのかもしれませんね」。

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