祈りは、私たちが「らしくある」ためのもの   −1−

2020.10.01

お葬式と聞くと、みなさんはどのようなシーンを思うでしょうか?

恐らくほとんどの人が、仏教式のお葬式を思い描くと思います。

ところが仏式のお葬式が日本に導入されるのは、大陸から仏教が伝わって以後のこと。

それ以前はどうなっていたかというのはいまだ研究の途上にあるようですが、

葬送の場で何らかの祈りがあったことは、間違いないようです。

 

縄文時代にはすでに、死者に朱をふりかける、墓穴の近くで火を焚くなど、儀礼的な行為が見られます。

また、古墳時代から仏教伝来以前の古代日本の葬送では、歌舞や儀式、祓いの行為などもあったようです。

これらは仏教伝来とともに姿を消したのでしょうか。

いいえ、現代でも、古代日本の葬儀の一部が神道葬祭として伝わっています。

 

 

 

神の国の祈りを守り伝えるため、創建された霊明神社

 

京都の東山山麓には、幕末に活躍した勤皇志士の霊山墓地があります。

現在では京都霊山護国神社の墳墓となっていますが、ここは明治期以前、霊明神社の墓地でした。

墓地に隣接する霊明神社。その創建は江戸末期に遡ります。

文化6年(1809)、時の光格天皇に仕えていた国学者で神道家の村上都愷(くにやす)は、

時宗国阿(こくあ)派の本山・正法寺の塔頭が所有していた土地を買い受け、

神道の祭場を拓きます。江戸時代は徳川幕府による寺請制度があり、

葬儀は仏教式でしか行うことができませんでした。

しかし都愷は、本来神の国である日本で、神道式のお葬式ができないのはおかしいと考え、

東山にて神道葬祭を始めることにしたのです。

 

「創建当時は神道葬祭など許されることではありませんから、

表面上は時宗のお葬式を装い、神道葬祭を執行していたようです」

と教えてくれたのは、現在同社の神主を務める村上浩継さん。

創始者の気持ちを考えるとき、

随神の道(かんながらのみち、かむながらのみち。神代から伝わり、人為の加わらない本来の道。神道を指すこともある)を徹底するため、

人が死する時も神道で葬られるべきだという考えで、神道のお葬式をこの場所で執り行ったと言います。

 

創建から時は移り、幕末。

神道の祈りに対する思い、また三代目神主の村上都平(くにひら)が久坂玄瑞と交流があったことも影響し、

霊明神社は京の町で倒れた勤皇の志士の葬式を執り行うようになります。

かの坂本龍馬の葬式も、同社で執行されました。

江戸時代は、徳川政権によって、寺請制度のようにさまざまなことが制度化されてきました。

その中では、本質的な祈りすら忘れられようとしていたのかも知れません。

徳川の世にほころびが出始めた幕末は、

その祈りを取り戻そうと思う人々が出てきた時代かもしれない、と村上さん。

 

 

東山のメインストリートとも言える二寧坂(二年坂)から、細い上り道を進んで霊明神社へ。 この道は別名「幕末志士葬送の道」とも名付けられており、坂本龍馬をはじめ、多くの幕末志士の遺体が京の町から神社へと運ばれてきました。

 

 

 

よりよく生きるために、祈りは必要

 

日本人が古来大切にしてきた「祈り」を守る場とも言える霊明神社。

そこで神主を務める村上さんは今、祈りをどう捉えているのでしょうか。

 

「神道は“よりよく生きる”ためにあると私は思っています。

現代は必要かどうか、大事かどうかわからないものも溢れています。

そのような毎日の中ではついほかのことに気を取られてしまい、また忙しく時間を過ごすうちに、

自分が大切にしたいものを見失い、結果的に心の在り様(ありよう)が崩れてくることもあります。

すると他者に対しても優しくできなくなるかもしれないし、本来の自分ができることを曇らせてしまう。

つまり自分が輝いていない状態になってしまう気がします。

神道では、罪穢れ、異心(ことごころ。余計なことを考えてしまうこと)を良くないものだと考え、祓います。

祓うことで、自分がニュートラルな、自然な状態でいられることを目指すのです。

祈りはこの祓いとも密接に関係してくるのですが、

誰かのために祈る行為というのは、自分の中のよこしまな部分を取り払うことでもあり、

そういう時間を持つことは大事なことですし、本来の輝きを取り戻せることにもつながります。

神道のハレとケの考え方や、祭りにもつながります。

祈ることで自分の思っている人に向き合い、また自分に向き合うことにもなり、

大事なものを取り戻していく時間になるのではないでしょうか」。

 

つまり自分や誰かに捧げる祈りは、心の中からよこしまなものを排除し、

心の平常を取り戻す、自分にとってプラスになることにつながるようです。

 

 

自分のために、祈る。

 

「対象が誰であろうとも、祈ることはすべて自分に戻って来ます。

自分自身の在り様をどうするか、と見つめ直す時間なのかもしれません」。

 

また、祈りの対象があることで自分が守られているような気持ちになれる、と村上さん。

「祈るときには“守ってください”と心で願うこともあるように、気の持ちようが違ってくると思います。

悲しみや苦しみが和らいだり、頑張ろうと思えるとか、

背中をちょっと押してもらえるようなこともあるのではないでしょうか」。

 

祈りは、自分が自分らしく生きていくためのメンテナンス時間を持つことにもつながるのではないか。

村上さんの言葉から、そんなことを考えました。

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